いとしご(オズとアーサー、モブの話)
オズのいない北の城は、おさなごひとりにはあまりにも大きく、さみしい。しかし、今回は一週間前から、アーサーはオズに今日出かけることを言い渡されていたので、朝起きたときにオズがいなくなる日に限って感じる底なしの暗いきもちをあまり感じずにすんだ。
アーサーは最初こそオズが自分に留守を任せるたびに泣いてマントにすがりついたが、今となっては自室にこもって本を読んだりして時間をてきとうにやり過ごすようになった。反対に、オズは「いってらっしゃいませ、オズ様」とにこりとアーサーがなんでもないふうに笑うのを見ると、心がぎしぎしと不可解な音を立て、いっそ泣いてマントにすがりついて欲しいと思ったものの、そのちいさな体を抱き締めるほかしかなかった。年端もいかぬ、綿のようにやわらかな手をもつこどもを、ひとりで冷たく、ただ広大なだけの城に置いておくのは、オズにとっては気が気でなかった。吹きすさぶ雪の中、何回も何回もオズは城のほうを振り返る。そして、そこで初めて、雪の中でみる自分の城が、黄泉へと続く門であるかのような、まがまがしい雰囲気を持つことに気がついた。きっと、グランヴェル城は天からの祝福を授けられたように、国の中心にその旗竿を金色にきらめかし、国章が縫われている旗をあたたかな風になびかせているのだろうとも思った。
さて、アーサーはオズに言いつけられた通り、自分の部屋の絨毯のうえにぺたりと座って本を読んでいた。外は吹雪がやみ、何にもけがされていない銀世界が広がっていて、ほんとうならそこに駆け出しいってしまいたかった。まだまだおさないアーサーにとって、外でかけまわることは何よりも楽しいものだ。ちら、ちらと何回も窓のほうにまなこを向ける。
まるで、生クリームを丁寧に塗られたケーキのようだ、とアーサーは思った。
「……あけて」
「え? 」
アーサーは絵本に戻しかけていた目をふたたび窓にやると、そこには同い年ほどの子どもが立っていた。
「ねえ……あけて」
消えかけの蝋燭のように頼りない声は、アーサーのおさな心に酷く訴えかけた。アーサーは窓に急いで駆け寄って、鍵を外してやった。冷たい風が、あたたかな血が流れるばら色の頬を打った。
「ありがとう。外はとても寒くて」
子どもは靴を脱ぎ、それを手に持つと窓からよじ上ってアーサーの部屋に入った。アーサーはふたたび窓を閉めると、袋を持ってきて子どもに差し出した。
「これに、靴を」
「ありがとう」
「ずっと雪の中に?」
「うん。どうして?」
「手が……ひどいしもやけで……」
アーサーの、白い鳥の羽のような手が、赤く膨らんだ手を包み込んだ。子どもはばつが悪そうな顔になり、すぐに手を引っ込める。
「だいじょうぶ。どうってことない」
アーサーの澄んだ青空の瞳がゆれる。なにか言いたげな様子を察し、子どもは「だいじょうぶだから」と再び念を押した。
「これを読んでいたの?」
「そうだ。今日はオズ様がいらっしゃらないから……」
「そうなんだ……」
子どもは絵本をアーサーに渡した。子どもは白色の髪を肩の上で切りそろえていて、瞳は双子が植えているマーシアの実のような赤色に満ち満ちている。薄いガラスで作られた眼球の中に赤色が揺れていて、アーサーが優しくまぶたの上から瞳を撫でようとすれば、それはかしゃんと壊れ赤色の涙が壊れた眼球から流れでるだろう。横顔は少女のようにも見え、正面からは少年のようにも見える子どもだった。
「あなたの名前は? 」
「名前? 名前なんてないよ」
「どうして。生まれれば、いちばん最初に授かるものだろう」
「きみの名前は?」
「アーサー」
「アーサー。賢そうなきみにぴったりだね」
子どもは白い髪を震わせて笑った。アーサーは質問をはぐらかされたことに少しむっとしたが、子どもが言いたくないのならそれでいい、と考え直した。つみきを籠から取り出して「やろうよ」と誘えば、子どもは「うん」と頷いた。
アーサーは長方形のつみきを立てて二つ並べ、その上につみきを乗せた。そしてその隣に長方形のつみきを横に置いて三角形のつみきを乗せた。一つはオズの城で、もう一つは冬の雪が溶け豊かな緑が地を覆いつくすころに、オズと二人で出かけた湖のちかくにある小屋をまねたものだ。
「どうして、窓を叩いたの」
「きみはとっても知りたがりなんだね。それは、きみに会いたかったからだよ」
子どもは薄いくちびるを割った。頬には血の気が通っていないのに、ちろりと見えた舌は南天のように赤い。
「私に用事が?」
「話してみたかったんだ。このお城に、ちいさな子がいるって聞いて、どんな子なのかすごく気になったんだよ」
アーサーは嘘のない言葉にあいまいに笑って体を捻じった。自分と年の近い子どもとこう話すのはとても珍しいことだったし、好意をこんな風にあらわされるのと嬉しくて、まるで一斉に鈴が鳴り出したかのように心臓が跳ねて落ち着かなくなった。
アーサーは、この子どものことが好きになった。北の国に来て初めて出会った子どもであったので、どうしても友達になりたいと思った。全速力で走ったあとのように心臓は脈を打ち、頬が熱くなるのを感じた。
「きょう、夜ごはんをいっしょにたべないかい。オズ様に紹介したいんだ」
子どもは青色のつみきを片手にもちこちらを振り向いた。先程、アーサーと話してみたかった、と同じ声色でこう言った。
「無理だよ。その人、いやがるよ」
「そんなことはない! オズ様はおやさしい方だから、初めて出会ったひとを嫌ったりしない」
子どもは自分が遊んでいたぶんのつみきを箱に仕舞った。そして、立ち上がってにこりと笑った。
「もう、いかなくちゃ」
「どこに?」
「ずうっと遠くにだよ」
子どもは歌うような調子で言葉をつむぐ。子どもは窓際に立った。いつの間にか、外はしんしんと雪が降り始めていた。
「来る?アーサー」
「え?」
子どもはアーサーに手を差し伸べる。アーサーはしもやけとあかぎれのある、ちいさな手を見つめた。
「ここよりも広くて、きみと同い年の子どもがたくさんいる場所があるんだ。そこには子どもしかいない。子どもだけで暮らしてるんだよ。すてきでしょう」
同い年の子どもがたくさんいる場所。そこなら、自分はこうしてひとりぼっちでいることもないのだろうか、一瞬考えがよぎる。でも、アーサーは優しい笑みを浮かべ真逆のことばを口にした。
「いかない。オズ様にいいこで待っていろ、と言われているから」
「そう……お別れだね、アーサー。さようなら」
「さようなら、どうか元気で」
子どもは窓を開き、ますます激しくなる吹雪の中に出て行った。子どもの姿はすぐに見えなくなり、まるで雪に攫われたようだった。
オズが子どもを拾った、というのはずっと前からきいていた。どんな子なのかと皆が気にし、ひとりはとてもかわいらしい子なのだと言って、もうひとりはずるがしこい子なのだと言った。運が良かっただけなんだよ、と隅っこで顔も上げずに言う子どももいた。
アーサーは、かわいらしい子だった。見ず知らずの人間を部屋にいれ、手のしもやけに気づいて、それを労わり握ってくれたのは、アーサーが初めてだった。アーサーが自分に興味をしめし、連れて帰ることができると一瞬思ったものの、オズの言われた通りに待たなくては、と断られてしまった。やさしくて、けなげな子どもだった。
どうして、アーサーは助けられて、自分たちは助けられなかったんだろう、と子どもたちは考えていた。北の国の雪の中に打ち棄てられた子どもはみな死んでしまう。母の名前を呼び、さまよったあげく崖から落ちた子ども、飢えて死んだ子ども、泣きつかれて寝てしまい、凍死した子ども。そんな子どもたちは、いまだどこにもいけず、かといって強い恨みも持たずに彷徨い続けるしかない。
アーサーはかわいらしく、やさしく、かしこい子どもだった。でも、でも、それでも、納得できない。かわいらしくないと、やさしくないと、かしこくないと、子どもは愛されないのか。どうして、私は、私たちはあの雪の中に棄てられてしまったのか。私たちは、生きることも、愛されることも値しない存在だったのか。
どうして、わたしたちは、死ぬ以外の選択肢がなかったの——
子どもの叫びは、灰色の吹雪に消され、誰にも聞こえなかった。
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